里親体験談~私は子どもが苦手でした~

「実は私、子どもは苦手でした」
Kさん(養育里親)

正直に申し上げて、私は子どもがあまり好きではありませんでした。相手になって遊ぶのも精々1時間が限界で、可愛いと思えても、そのうち振り回され始めるとギブアップです。なので、子どもが授からなくても、どうしても子どもが欲しいと感じたりすることもなく、その努力もしませんでした。授からないなら互いに夫婦だけの生活を満喫すればよいでしょうと、この数年は過ごしていました。
しかし、人生80年の折り返し地点に差し掛かり、このままで満足できるかという自分への疑問が沸々と湧いてきだしたのです。当時、大阪で育児放棄によって二人の幼児が死亡したニュースが報道されていた時期でもありました。
でも、私個人の一存で『子育てはじめます宣言』を発令することはできません。大概のことを尻に敷いている私ですが、この時ばかりは主人をどう取り込むか頭を捻りました。ところが、主人の方から「死なしてしまうくらいやったら、家の前においたってくれたらよかったのに。」とニュースを見ていて話すのです。『此奴は落とせる!』と直感しました。

里親制度のことは何となくの知識でしたが、ネット検索から週末里親の存在を知りました。共稼ぎ夫婦ですし、里親になっても看護師の仕事は続けたい強欲な私にとって、受け入れやすい制度でした。さっそく主人に相談という名の、やるからええな!という強制執行宣言を果たし里親支援機関であるリーフへ問い合わせの電話をかけました。
研修期間を経て、週末児童のA君とは2年前の夏に初対面しました。小学1年生でした。月に2回の外泊は、A君も私たち夫婦も待ち遠しいものでした。互いの実家にも紹介し、快く迎えてもらえました。孫が成人を迎えるころに7歳坊主がやってきて、新たなアイドル誕生でした。A君の方も普段老人との関わりがないため、おばあちゃんの行動に興味津々でした。私の母が食後に部分入れ歯を取り出したときは目が飛び出し息が止まるくらいの驚きようで、「何それ!見せて!もう一回やって!」と、入れ歯の出し入れをアンコールされ、何度もトランスフォーマーさせられました。

初めての冬休み、7日間の長期外泊をしました。とても楽しいお正月が過ごせて、あっという間の7日間でした。この時の週末里親活動報告書の施設帰園後のA君の状況記載がこのようにありました。〈長い外泊のあとだったので、帰ってきた時は少し元気がありませんでした。少しさみしかったのだと思います。夕食の時に「さみしくて、夜に泣いたらあかんで~」と声を掛けると、いつもなら「大丈夫やし!」と元気な声が返ってくるのですが、今日は言葉に詰まり、泣きそうな表情になっていました。たくさん甘えさせてもらい、良いお正月を過ごさせてもらったことが伝わってきました。この様子があったので、夜は少し気になりましたが、いつもの元気が戻り次の外泊を楽しみにしています〉読んでからA君に対する愛しさが込み上げました。

今までは知り得ることもなかった存在であるA君を、施設に送り届けるとき、「よろしくお願いします。」と託す違和感を覚え始めたのもこの頃からでした。ちょうどそんなタイミングに養育里親への声を掛けていただきました。
主人に今度は、真摯に本当の相談をすると二つ返事で「ええんちゃうか」と、意外でした。徹夜での口説き文句を用意していたのですが、拍子抜けでした。でもよく考えたら主人も外泊ごとにA君と関わっていたのですから、3人に似たり寄ったりの感情が湧いていて全く不思議はなかったのでしょう。そして絶妙なタイミングで声を掛けてくださった里親支援機関のリーフの方々にしてやられ、見事な戦力に『落とされた』瞬間でした。

養育里親への変更を施設の担当先生が泣いて喜んでくれたことを、後日伺いました。A君は実親と暮らす縁には恵まれなかったものの、周囲の愛情を受けて今まで過ごしてきた果報者であることが、とても嬉しく思えました。
週末里親から1年2カ月後、小学2年生の2学期にA君との生活をスタートしました。ここからはA君のことを息子と呼ばせていただきます。養育里親宅で暮らすことへの不安は、迎える側の私たちより、生活環境や転校による友人関係の変化がある息子の方が遥にありました。特に「転校するのが嫌や」とこの感情だけは転校当日の朝まで解決できませんでした。「父と母とはずっと一緒にいたいけど、学校は今のままの方がいい。意地悪されたら嫌や。」とよく言っていました。新しい学校で誰も知らないのに、自分一人が入っても友達ができないと思い込んでいました。「そうやな、ドキドキするよな。心配やんな。でも思い出してみてな、初めて父や母と会った時も同じ気持じゃなかったかな?心配やってドキドキした気持ちが、今はどんな気持ちにかわった?」と息子に尋ねました。息子は「嬉しいドキドキに変わったよ。」と答えてくれました。「母も同じ気持やで。初めてA君に会うとき緊張してドキドキしたわ。でもドキドキするから会うの止めますって言わんで良かった。あの時止めてたら、嬉しいドキドキに変わらんかったもんな。」と話しました。「友達できるかな?」という不安は持続しましたが、「絶対、大丈夫!」とその言葉を繰り返しました。
結局、転校初日の帰宅時に息子が「ただいま~明日も学校いくで。楽しかったから、もう転校せえへんで。」の一言でこちらも安堵しました。

里親としての私の唯一の心配の種は、他の子どもからの質問でした。息子自身は里親である私達が本当の両親でないことを理解しています。転校前に里親姓でなく自分の姓を名乗ることを選んだのも息子でした。施設のある小学校では子どもたちも普通に里親のことを理解していましたが、転校先での小学校は私も卒業生ですが、周りや友達にも里親と生活している子どもがいないので、ちゃんと説明できるか、理解してもらえるかの不安はありました。 ご近所さんは、週末のころから年の近い子ども同士遊ぶ機会があったので、里親を始めたことや転校のことも親同士で話したりして学校行事を教えてもらったりしました。大人の方は結構噂で広まるだろうと、思っていたのですが案外みなさん口が堅くて、毎回同じ説明するのも面倒になり、転校後の学級懇談会の自己紹介で一斉発信させていただきました。

息子もクラスの友達と遊んでいる時に、「俺のお母さんやけど、ほんとのお母さんとちゃうねん。本当のお父さん病気で一緒に暮らされへんからな。ほんで俺のお父さんとお母さんの代わりしてくれてるねん。」と説明していました。その説明で済む子もいれば、病気のことや母親のこと等、自分が疑問を持ったことをどんどん聞いてくる子もいます。息子が知っている範囲で補足しますが、それ以上は「おばちゃんも知らんねん。」で終了しています。
先日も家で同級生と遊んでいて、「お前、すごいよな。俺、パパもママもおらんの想像でけへん。そんなん最悪や。」と話しかけられていました。息子の返答は「そうかあ、俺結構幸せやで。まあ、もうちょっと優しい方が良かったけどなあ。」と褒めていただいたのか、けなされたのか。とりあえず『幸せやで』というところだけ、母の胸に都合よく留めさせていただきました。
夏休みには、息子と旅行を兼ねて実のお父様との面会もさせていただきました。普段と少し違う照れた息子の様子から、小恥ずかしい思いでした。別れ際にお父様が「よろしくお願いします。」と頭を下げてくださり、お父様の複雑な心情を施設に送り届けていた頃の自分と重ね合わせ想いを共にできたように感じられました。今も一カ月に一回くらい息子から電話をかけていますが、お父様と話しているときの息子は、体をくねくねさせて小恥ずかしそうですが、嬉しそうです。私たちに話しにくいことはお父様にいつでも電話していいと息子に話しています。将来、必ずお父様の存在が必要な時期も来ると思うので、この関係を大切にしていきたいとも考えています。

なんだかんだと養育期間も1年がたち、小学1年生で出会った息子も少々生意気な3年生になりました。研修中に同席していた奥さんが、「思春期の対応をどうしたらいいか」と悩んでおられましたが、我が家の場合、まだまだ先の心配の種のようです。先日の就寝前の布団会議では『頻繁におもちゃ屋さんに連れて行ってもらうにはどうしたらいいか』ということが一番の悩みと申しておりました。
これらの様々な出来事も息子と出会っていなければ、全部無かったことになるのかと思うと、里親やってよかったと思います。施設でのお別れの時、「A君は諸事情あって、施設でのお別れが2度目です。さみしい経験を乗り越えてきたのも、里親さんと出会うための運命やったんかなあと思います。」とおっしゃっていただきました。ちょうど養育を開始した時期に、地球人口が70億人を突破したと新聞記事になっていました。息子とは血は繋がっていませんが70億分の1の出会いです。奇跡と運命で繋がっている私達は家族です。
もし里親どうしようと迷っている方がいらしゃるなら、やってみた方がいいと思います。不真面目な私でもなんとかなってます。里親支援機関や子ども相談所の皆さん、そして堺市里親つながり会の仲間達のバックアップもありますし、やらないで悩む時は一人ですが、やってみて悩む時は家族が増えていますし、仲間も増えています。
子ども嫌いの私が言うのも変ですけど、子どもの居る生活って毎日が楽しいですよ。

もっか息子と弟や妹が欲しいよね。と共同戦略を計画し主人と交渉中です。泣き落としや猫なで声が通じなければ、最終的には兵糧攻めも画策して家族増加計画進行中です。

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