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  • 2015年03月20日金曜日
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「二人育てた思い」

一人目は約31年前より、2歳の男児を育てて、養子縁組を申請しました。成長していく日々が楽しく、様々な行事に参加したことは今でも良い思い出になっています。なかなか集団生活になじめないところがあり、小学校の修学旅行では僕と友達が一緒に説得してなんとか参加したという大変な記憶もあります。高校時代に僕が大腸がんになって40日間入院したときは、その寂しさで学校をやめると言い出したこともありました。母親のほうが参って大変でしたが、子どもの友達のアドバイスもあり、一週間ほど休んだだけで登校することができて、ほっとしたのを覚えています。その子どもも、3年前には結婚をして今ではパパになりました。

二人目は8年前に養育を始めた小学校2年の男児です。成績もかなり悪く、昼夜を問わず、おしっこ等で約1年半苦労しました。よく喧嘩もしました。ただ素直で元気なとても子どもらしい子でした。4年生までは成績が悪く、とても心配しましたが、プールに行くようになってからは、根性もついて成績もよくなってきたように思います。今では高校2年生になり、水泳クラブで頑張っています。今、本人の了解も得て、養子縁組を申請中です。

今思っていることは、元気が何より大切だということです。子どもは一人よりも二人のほうが、お互いにとってもよいと考えています。

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  • 2015年03月20日金曜日
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「家族」

私たち一家は、全く血のつながりはありません。でも、お互いの事を大切だと思い、支え合う家族です。普段は、その事を忘れて生活しているけれど、考えてみると、かけがえのない家族だと思いました。なぜなら、自分の子どもみたいに優しく育ててくれる親がいて、本当のお姉ちゃんみたいに慕ってくれる妹がいるからです。

私はこの家に来て良かったと思います。それは、自分を好きになってくれた里親さんを自分にとっての、お母さんやお父さんだと、心から思えるし、お母さんやお父さんも私の事を好きでいてくれるからです。

これからも、大切な家族と一緒にいたいと思いました。

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  • 2015年03月20日金曜日
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里親体験談 里親になって

私は、現在、主人と成人した3人の息子達、年の離れた5歳の娘と6人家族で、忙しくもあり賑やかな張りのある毎日を過ごしています。

3人の息子達が社会人となり、子どもの手が離れ、ホッとしたものの寂しさを感じ、「もう一度子育てがしたい」「子どもを抱っこしたい」「困っている子どもさんやお母さんの役に立ちたい」という思いで養育里親を希望しました。

回りの人達からは、「これから夫婦の時間がゆっくり楽しめるのに…」「なんで責任のあるしんどい思いをするの?」などの批判もありましたが、主人や息子達は、私の熱意に賛同してくれ里親研修、家族の面接などを終え、昨年の7月に念願の里親登録を完了することが出来ました。

登録が完了して2ヶ月後の9月に4歳になったばかりの女の子Mちゃんのお話を頂き現在に至りますので、その体験や経験、感じたことなどをお話させて頂きます。

相談所から電話があり、主人とワクワクドキドキでお話を伺いに行きました。Mちゃんの背景から長期の養育が必要な事や情緒不安定な面があり、発達にも少し遅れがある事、熱性痙攣を度々起こし、体調面でも注意が必要な事などを聞いて、「本当に自分たちでやっていけるだろうか?」と期待よりも不安の方が大きくなってきました。

でも、相談所でお預かりしたMちゃんの写真を毎日見ているうちに情も湧いてきて「せっかくお話を頂いたのだから、これも何かの縁!」とMちゃんに会うのを楽しみにしていた様に思います。

施設で面会が出来るようになり、相談所の方と主人とMちゃんに会いに行きました。

初日は、男の人が苦手なので主人は、近づかない方が良いとの事で、私だけがMちゃんと関わり主人は、遠くから見ているだけにしました。

2日、3日と主人と二人で面会に行くうち、気持ちが少しづつほぐれて4日目には、我が家に初めてお泊りする事になりました。

帰りにMちゃんの好みのアンパンマングッズを色々と買い揃えて、自分の為の買い物、自分専用の物がある!ととっても喜びお泊まりも無事に出来ました。

その後もMちゃんの無理のない様にと施設の先生と相談しながら泊まる回数を徐々に増やしたりお出かけに行ったりして関係を深め一ヶ月後の10月に委託となりました。

研修で、“委託児童によくみられる行動”としてまずは、見せかけの時期があり、とってもお利口さんにして大人に気に入られようとし、次に試しの時期があり、過食・赤ちゃん返り・強い後追い・感情の爆発・大人の嫌がる行動を取り続けるそして、やっと信頼関係の成立と習いました。

正にその通りで、委託前後の1か月位は、いつでも私にコアラの様にくっついていて、トイレの中まで一緒でしたが、本当に大人しく、なんて育てやすい子なんだろう!なんて思っていました。その後は、徐々に私からも離れられるようになり、自分の要求を伝えようとしたり、我を出す場面も見られ、我が家にも慣れてきてくれたなぁ~と喜んでいたら、赤ちゃん返り・大人の嫌がる行動をとるなど何度か試し行動を繰り返している内に、いつの間にか遠慮なく言い合いの出来る親子関係が築けて来た様に思います。

馴染みのある施設の先生方やお友達と離れ、たった一人新しい生活に入るのだから私達大人が試されて当たり前なんだと思います。

今でもたまに赤ちゃん返りなどをする時もありますが、どんと受け止め、以前の様に気を遣う事もなくなってきました。注意すべきことは、注意をし、Mちゃんもそれを素直に受け止める事が少しずつ出来るようになってきています。

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  • 2015年03月20日金曜日
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里親体験談 新しい家族

私は30歳で結婚し、当初から子どもを望んでいたのですが、なかなか授からなかったので、不妊治療を始めることにしました。結局37歳まで3ヶ所の病院に通いましたが、子宝には恵まれなかったので、養子を迎えるのはどうかと、夫に話しをしたことがありました。夫は前向きに考えてくれました。

月日が流れ、42歳を間近に迎えたときに妊娠が出来ない体だと医師に告げられ、その時はショックを受けましたが、やっと夫と共に、特別養子縁組に向けて気持ちを切り替えることが出来ました。

そして平成22年7月に堺市子ども相談所に面接の予約を入れました。夫婦一緒だったり、どちらか一方だけの面接が何度かあり、必要書類を提出し、研修を受け、児童養護施設での実習を終え11月末に里親登録が出来ました。以前ネットでは児童相談所で里親登録をしても、すぐには子どもを紹介してくれないと書いてあったので、私達は年末は夫婦でのんびりしようと考えていました。

ところが、12月に入ってすぐ、子ども相談所から紹介したい子どもがいると電話がありました。私はドキドキして男の子か女の子か、何歳かも聞けないまま受話器を置きました。そして1週間後に夫婦二人で、子ども相談所に行くことになりました。私たちは2歳位の子どもを希望していたので、実習で関わった小さな子達を想像しながらその日を待ちました。

そして当日、私たちは子どもに直接会えると思っていたのですが、そうではありませんでした。

紹介されたのは3歳7ヶ月のYくんでした。写真を見て以前毎日新聞の「愛の手」に掲載された子だとすぐに分かりました。その切抜きは今でも大切に持っています。でもその当時は、里親登録も済んでいなかったし、希望していた2歳児ではなかったので行動には至りませんでしたが、彼の生い立ちや、一緒に施設で生活していたお友達が里親家庭に引き取られて、寂しがっていたことを聞いて、3歳7ヶ月でいろんなことを背負っているんだと、まだ会ってもいないのにとても愛しく思いました。

返事は後日電話ですることになっていたので、私達は心に重いものを抱えて、子ども相談所を後にしました。私は帰りの車で夫にどうだったか聞いてみました。夫は可哀想だけど、すぐには決められない、もう少し考えたいと言いました。しかし、私の答えは決まっていました。子育て経験の無い私が、突然3歳7ヶ月の男の子の相手が出来るだろうか、という不安はもちろんありましたが、今回もしもこのお話をお断りした所できっと、あの子はどうなったんだろう?幸せに暮らしているだろうか?とずっと気になり続けることは想像できたからです。

私達は夜遅くまで話し合いましたが、その日結論は出ませんでした。

翌日、私は買い物に出掛けました。そこには100cmの男の子の服が飾られていました。夏には93.5cmだったYくんは、こんなに小さな服を着る程まだまだ小さい子どもなんだと、さらにYくんのことが愛しくなってきました。

その夜、仕事から帰宅した夫と再度話し合い、Yくんと私達は縁があったからこそこんなに早いタイミングで引き合わせてもらい、そしてYくんは自分だけを愛してくれる親を待っている、私達にはそれが出来るんじゃないかと、Yくんを迎えることに決めました。

後日、子ども相談所からYくんとの面会の日程を知らせる電話がありました。私達は12月20日にYくんのいる児童養護施設に直接会いに行くことになりました。その時に、Yくんにどう呼ばれたいですかと聞かれたので、さすがに40過ぎた夫婦にパパ、ママは無いと思ったので「お父さん、お母さん」でとお願いしました。また、クリスマスも近かったので、Yくんの大好きだと言うアンパンマンのサンタブーツを買っていくことになりました。

そして当日がやって来ました。仕事を早めに切り上げて来た夫と、ドキドキしながら児童養護施設に向かいました。応接室に通され担当の先生と打ち合わせをしていると、なんとYくんがドアからニコッと顔を出して、私達に会いに来てくれました。実際に会うと写真よりもまだまだ小さくて可愛い男の子でした。その後、別の部屋に移動し、私達とYくんの3人だけの時間を作って頂きました。Yくんは絵本を手にすると何の躊躇も無く、私の膝にちょこんと座りました。こちらがあっけに取られていると「ねぇ、ママ」と自然に話しかけてくれました。そして次に夫の膝に普通に座り、パパと呼んでいました。本当はお父さん、お母さんと呼ばせたかったけれど、Yくんがここまで自然に呼んでくれるので、今でもこの呼び方で通っています。

そして3人だけの時間はあっという間に過ぎました。Yくんはニコニコしながら、玄関まで私達を見送ってくれました。私は翌日から施設に通うことになっていたので「また、あしたね」と言って、家路に着きました。私達はまさか初日に、あんなに懐いてくれるとは思っていなかったので、少々驚きましたが、翌日から会いに行くのがとても楽しみになりました。

そして当日、私はお昼前からYくんと個室で過ごしました。一緒にお昼ご飯を食べたり、テレビを見たり、ブロックを組み立てたり、おトイレをさせてあげたりしていろんなことをしました。Yくんは前日にプレゼントしたサンタブーツのお菓子をおやつに食べました。そしてYくんとの会話の中で動物の話が出たので、私が動物園で撮った写真を見せてあげることにしました。夫が写っていると「これパパ?」と聞いてくるので「そうやで、Yくんのパパやで」と答えました。そのせいか、次に夫と会うまで、夫の顔を覚えてくれていました。そしてYくんは初めて触るデジカメで私の写真を撮ってくれました。

翌日も施設で過ごす予定でしたが、家に猫が3匹いることを告げるとYくんは「ママの家に行きたい、猫ちゃんに会いたい」と言いました。施設の先生に言うとOKが出たので、翌日は家で過ごすことになりました。その日の帰り、Yくんの為にチャイルドシート、着替え、歯ブラシ、食器など慌てて買い揃えました。そして、家に帰ってYくんを迎える準備をしました。

当日は新しいチャイルドシートにYくんを乗せて、マクドナルドでランチをしました。Yくんはチーズバーガーを半分食べたところで、「うんこ」と呟きました。私は「えっ、うそっ!」と思いましたが、テーブルをそのままにしては行けないので、慌てて持ち帰り用の紙袋に、食べかけのチーズバーガーとポテトを放り込んで、トイレに駆け込みました。子どもがいるとこんな事が度々あるのか、と勉強になった出来事でした。その後、公園で遊んでいよいよ我が家へ連れて帰りました。Yくんは探検でもするかのように、家の中を歩き回りました。猫達はYくんの足音に驚いたのか、1匹を除いて皆どこかに隠れてしまいました。

その日はYくんとカレーライスを作って、一緒にお風呂に入って、また施設まで送り届けました。その日から毎日施設まで迎えに行って、家で一緒に過ごして、また施設に送り届ける日が続きました。

クリスマスはお泊りのOKが出たので、Yくんの大好きなアンパンマンのクリスマスプレゼントと、仮面ライダーオーズのケーキを用意して楽しく過ごしました。

そして、2回目のお泊りの時、Yくんは初めて施設に戻りたくないと、泣いてしまいました。そうかと思えば「もう、パパとママとお別れする。」とも言い出しました。私は、Yくんが落ち着くまでもう1泊出来ないかと施設に電話しましたが、先生はYくんには「ママの所で1回お泊りしたら、また施設に帰って来るのよ。」と約束しているので、可哀想だけど連れて来て下さいと言いました。その日はYくんをなんとかなだめて車に乗せました。

Yくんは施設に戻る日は、夕方頃からだんだん機嫌が悪くなり、私がリュックに荷物を詰め始めると、駄々っ子のように手足をバタバタさせて泣きました。それでも施設には連れて行かないといけないので、「ねぇ、Yくん、ママと一緒にガチャガチャしに行こうか?」と嘘をついて車に乗せました。Yくんはいつも「ガチャガチャしたらおうちにかえるで。ぜったいおうちのベッドでねるで」と言いました。Yくんはガチャガチャを手にすると機嫌が良くなり、その後はチャイルドシートで眠ってしまいました。私は起こさないように、施設に向かってそっと車を走らせていると、Yくんがひょこっと起きて、「ママ、もうすぐおうち?」と聞いてきました。私はもう嘘はつけないと思い、本当のとこを話すと、Yくんは運転席の背もたれをガンガン蹴って来て、泣き喚きました。他の人が見ると誘拐犯に見えたかもしれません。施設に着いてもYくんは車を降りようとしません。先生がやっと抱きかかえて下ろすと、施設中に響き渡るような大きな声で泣き叫びました。Yくんは私に手を伸ばしてきたので、部屋まで抱っこして連れて行くことにしましたが、それでも一向に泣き止みませんでした。ずっと一緒にいたいのに、帰りは1人きりで家路に付く。私はこの時が、今までで一番辛かったです。

Yくんは車に乗ると、最初の頃はいろんな車を見てはしゃいでいたのに、この頃は、信号待ちで止まると「なんでとまってるの?」とか「どこいくの?」といつ施設に連れて行かれるのか、不安がっていました。

そして、ようやく1月末に施設とのお別れが決まりました。これでやっと、Yくんに「ずっとお家やで、もう施設に行かなくてもいいんやで。」と言ってあげられました。Yくんはとても喜んでくれました。私ももう、あんな泣き顔を見なくて済むと思うと嬉しくなりました。

施設とのお別れの日、皆でYくんを見送ってくれました。いつもと違う雰囲気にびっくりしたのか、Yくんはずっと無表情でしたが、一緒にケーキを買って帰ると、いつものYくんに戻りました。

それからしばらくして、Yくんと私は緊張が緩んだのか風邪で寝込んでしまいました。風邪は1週間ほどで治りましたが、当時は病院で里親や施設に渡される受診券で診てもらっていたので、名前を呼ばれる度に、Yくんは「ちがうなまえよんでたよ、なんで?」と聞いてきました。私は「今は違うけれど、いつかママと同じ名前になるからね。」と説明しました。こんな時はいつも、早く私達の籍に入れてあげたいと思いました。それから病院に行くときは、いつも私達の苗字で呼んでもらうようにお願いしました。

真実告知については、施設でも絵本を使って聞いていたようですし、私達夫婦もYくんに聞かれたら何でも話そうと考えていました。Yくんは私と夫の子どもではないことは最初から知っていたので、Yくんがお家にやって来て私達がどんな気持ちだったか、今まで寂しくなかったか聞いてきました。そして何度か私のお腹から生まれたかった、と言ってくれたこともありました。私もYくんを産めなかったけれど、私達の元に来る為に、生まれてきてくれたと思っています。だから、いつも「Yくんはパパとママにとって、とても大事なんだよ」と言っています。

Yくんが家に来てから、思い出も沢山出来ました。春にはお弁当を持って花見に出掛け、誕生日を祝って、夏には2年続けて和歌山に海水浴に行きました。秋にはハロウィン、紅葉狩り、クリスマスは一緒にツリーを飾り、初めての冬は雪の中USJに行きました。お正月にはお互いの実家に帰り親戚への顔合わせもしました。初めは固まっていたYくんでしたが、2年目にもなると輪の中心にいました。以前とは違ってずいぶん明るくなったと皆驚いていました。

初めてのヒーローショーはウルトラマンでした。Yくんは周りのノリに付いて行けず、ずっと黙ったままでしたが、それからはウルトラマンが大好きになりました。今では仮面ライダーはもちろん、親の影響で昔のヒーローやアニメにも詳しくなりました。

Yくんは年少の年は、まだ迎えて1年目だったので親子の絆を深める為に幼稚園には入れずに、私と一緒に過ごすことにしました。

そして今年の春から年中さんです。それまでの1年ちょっとでお兄さんになったのか、通園バスでも最初から泣かずに元気に通っています。幼稚園でたくさんお友達ができて、本当に毎日が楽しそうです。

先日、幼稚園で運動会があり、夏休み明けから毎日頑張っていた練習の成果を、私達に見せてくれました。私達も他の若い親たちに混じって頑張りました。こういう楽しい経験が出来たのも、Yくんが私達の元に来てくれたからです。

たまに聞き分けが無くて、腹の立つこともあり、私がトイレに逃げ込んだこともあります。また、叱り付けて泣かせてしまったことも何度もあります。でもその後必ず、なぜ叱ったのか、どこがイヤだったのか説明するとちゃんと理解してくれます。その後はいつも“仲良しのギュウ”をして仲直りすることがお約束になっています。私自身、Yくんを抱きしめることで、落ち着きを取り戻すことが出来ました。

里親になる前は、子どもを育てるのは大変なことだと、周りの人から言われましたが、自分の子として育てるのだから当然のことだと思っています。

でも、それ以上に子ども目線の発見や、今まで気付かなかった親の気持ちを気付かせてくれて、Y君を迎えて本当に良かったと思っています。

現在は特別養子縁組も成立し、晴れてYくんは私達の長男になりました。

この先もいろんな事があるかもしれませんが、ありのままのYくんを受け止めて行きたいと思います。

最後に我が家に迎えるまでYくんをお世話してくださった乳児院の先生方、児童養護施設の先生方、そして、Yくんを迎えてからはいろいろ支えてくださった子ども相談所の方々、里親支援機関リーフの方々本当にありがとうございました。

そして、Yくん、生まれてきてくれて、本当にありがとう。

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  • 2015年03月20日金曜日
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自分でやる子になるぞ

ぼくの小さい時は泣き虫ですぐに「できひんわー」と泣いていましたが今は何でも「自分でやる!」と言ってできるようになったと施設の先生が言っていました。それを聞いて、これからも「自分でやる子」になりたいと思いました。
ぼくの将来の夢はふつうのサラリーマンになってコツコツとお金をためて施設やおばあちゃんや里おやさんにおん返しをすることです。
ふつうのサラリーマンになるには勉強をいっぱいしないとだめなのでさと親さんの家などでもっと勉強をしたいです。

元気で大きく成長して、えらい人になってほしい。他の人にじまんできるとくいなことを1つ見つけてほしいとおうちの人が言っていたのでもっと勉強をがんばりたいです。
施設の先生、毎日毎日せんたく物をたたんでくれていつもありがとうございます。できるだけ早く自分でたためるようにがんばります。
(施設で生活するT君。週末は里親家庭で過ごしています。)

  • 2015年03月18日水曜日
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里親体験談~私は子どもが苦手でした~

正直に申し上げて、私は子どもがあまり好きではありませんでした。相手になって遊ぶのも精々1時間が限界で、可愛いと思えても、そのうち振り回され始めるとギブアップです。なので、子どもが授からなくても、どうしても子どもが欲しいと感じたりすることもなく、その努力もしませんでした。授からないなら互いに夫婦だけの生活を満喫すればよいでしょうと、この数年は過ごしていました。
しかし、人生80年の折り返し地点に差し掛かり、このままで満足できるかという自分への疑問が沸々と湧いてきだしたのです。当時、大阪で育児放棄によって二人の幼児が死亡したニュースが報道されていた時期でもありました。
でも、私個人の一存で『子育てはじめます宣言』を発令することはできません。大概のことを尻に敷いている私ですが、この時ばかりは主人をどう取り込むか頭を捻りました。ところが、主人の方から「死なしてしまうくらいやったら、家の前においたってくれたらよかったのに。」とニュースを見ていて話すのです。『此奴は落とせる!』と直感しました。

里親制度のことは何となくの知識でしたが、ネット検索から週末里親の存在を知りました。共稼ぎ夫婦ですし、里親になっても看護師の仕事は続けたい強欲な私にとって、受け入れやすい制度でした。さっそく主人に相談という名の、やるからええな!という強制執行宣言を果たし里親支援機関であるリーフへ問い合わせの電話をかけました。
研修期間を経て、週末児童のA君とは2年前の夏に初対面しました。小学1年生でした。月に2回の外泊は、A君も私たち夫婦も待ち遠しいものでした。互いの実家にも紹介し、快く迎えてもらえました。孫が成人を迎えるころに7歳坊主がやってきて、新たなアイドル誕生でした。A君の方も普段老人との関わりがないため、おばあちゃんの行動に興味津々でした。私の母が食後に部分入れ歯を取り出したときは目が飛び出し息が止まるくらいの驚きようで、「何それ!見せて!もう一回やって!」と、入れ歯の出し入れをアンコールされ、何度もトランスフォーマーさせられました。

初めての冬休み、7日間の長期外泊をしました。とても楽しいお正月が過ごせて、あっという間の7日間でした。この時の週末里親活動報告書の施設帰園後のA君の状況記載がこのようにありました。〈長い外泊のあとだったので、帰ってきた時は少し元気がありませんでした。少しさみしかったのだと思います。夕食の時に「さみしくて、夜に泣いたらあかんで~」と声を掛けると、いつもなら「大丈夫やし!」と元気な声が返ってくるのですが、今日は言葉に詰まり、泣きそうな表情になっていました。たくさん甘えさせてもらい、良いお正月を過ごさせてもらったことが伝わってきました。この様子があったので、夜は少し気になりましたが、いつもの元気が戻り次の外泊を楽しみにしています〉読んでからA君に対する愛しさが込み上げました。

今までは知り得ることもなかった存在であるA君を、施設に送り届けるとき、「よろしくお願いします。」と託す違和感を覚え始めたのもこの頃からでした。ちょうどそんなタイミングに養育里親への声を掛けていただきました。
主人に今度は、真摯に本当の相談をすると二つ返事で「ええんちゃうか」と、意外でした。徹夜での口説き文句を用意していたのですが、拍子抜けでした。でもよく考えたら主人も外泊ごとにA君と関わっていたのですから、3人に似たり寄ったりの感情が湧いていて全く不思議はなかったのでしょう。そして絶妙なタイミングで声を掛けてくださった里親支援機関のリーフの方々にしてやられ、見事な戦力に『落とされた』瞬間でした。

養育里親への変更を施設の担当先生が泣いて喜んでくれたことを、後日伺いました。A君は実親と暮らす縁には恵まれなかったものの、周囲の愛情を受けて今まで過ごしてきた果報者であることが、とても嬉しく思えました。
週末里親から1年2カ月後、小学2年生の2学期にA君との生活をスタートしました。ここからはA君のことを息子と呼ばせていただきます。養育里親宅で暮らすことへの不安は、迎える側の私たちより、生活環境や転校による友人関係の変化がある息子の方が遥にありました。特に「転校するのが嫌や」とこの感情だけは転校当日の朝まで解決できませんでした。「父と母とはずっと一緒にいたいけど、学校は今のままの方がいい。意地悪されたら嫌や。」とよく言っていました。新しい学校で誰も知らないのに、自分一人が入っても友達ができないと思い込んでいました。「そうやな、ドキドキするよな。心配やんな。でも思い出してみてな、初めて父や母と会った時も同じ気持じゃなかったかな?心配やってドキドキした気持ちが、今はどんな気持ちにかわった?」と息子に尋ねました。息子は「嬉しいドキドキに変わったよ。」と答えてくれました。「母も同じ気持やで。初めてA君に会うとき緊張してドキドキしたわ。でもドキドキするから会うの止めますって言わんで良かった。あの時止めてたら、嬉しいドキドキに変わらんかったもんな。」と話しました。「友達できるかな?」という不安は持続しましたが、「絶対、大丈夫!」とその言葉を繰り返しました。
結局、転校初日の帰宅時に息子が「ただいま~明日も学校いくで。楽しかったから、もう転校せえへんで。」の一言でこちらも安堵しました。

里親としての私の唯一の心配の種は、他の子どもからの質問でした。息子自身は里親である私達が本当の両親でないことを理解しています。転校前に里親姓でなく自分の姓を名乗ることを選んだのも息子でした。施設のある小学校では子どもたちも普通に里親のことを理解していましたが、転校先での小学校は私も卒業生ですが、周りや友達にも里親と生活している子どもがいないので、ちゃんと説明できるか、理解してもらえるかの不安はありました。 ご近所さんは、週末のころから年の近い子ども同士遊ぶ機会があったので、里親を始めたことや転校のことも親同士で話したりして学校行事を教えてもらったりしました。大人の方は結構噂で広まるだろうと、思っていたのですが案外みなさん口が堅くて、毎回同じ説明するのも面倒になり、転校後の学級懇談会の自己紹介で一斉発信させていただきました。

息子もクラスの友達と遊んでいる時に、「俺のお母さんやけど、ほんとのお母さんとちゃうねん。本当のお父さん病気で一緒に暮らされへんからな。ほんで俺のお父さんとお母さんの代わりしてくれてるねん。」と説明していました。その説明で済む子もいれば、病気のことや母親のこと等、自分が疑問を持ったことをどんどん聞いてくる子もいます。息子が知っている範囲で補足しますが、それ以上は「おばちゃんも知らんねん。」で終了しています。
先日も家で同級生と遊んでいて、「お前、すごいよな。俺、パパもママもおらんの想像でけへん。そんなん最悪や。」と話しかけられていました。息子の返答は「そうかあ、俺結構幸せやで。まあ、もうちょっと優しい方が良かったけどなあ。」と褒めていただいたのか、けなされたのか。とりあえず『幸せやで』というところだけ、母の胸に都合よく留めさせていただきました。
夏休みには、息子と旅行を兼ねて実のお父様との面会もさせていただきました。普段と少し違う照れた息子の様子から、小恥ずかしい思いでした。別れ際にお父様が「よろしくお願いします。」と頭を下げてくださり、お父様の複雑な心情を施設に送り届けていた頃の自分と重ね合わせ想いを共にできたように感じられました。今も一カ月に一回くらい息子から電話をかけていますが、お父様と話しているときの息子は、体をくねくねさせて小恥ずかしそうですが、嬉しそうです。私たちに話しにくいことはお父様にいつでも電話していいと息子に話しています。将来、必ずお父様の存在が必要な時期も来ると思うので、この関係を大切にしていきたいとも考えています。

なんだかんだと養育期間も1年がたち、小学1年生で出会った息子も少々生意気な3年生になりました。研修中に同席していた奥さんが、「思春期の対応をどうしたらいいか」と悩んでおられましたが、我が家の場合、まだまだ先の心配の種のようです。先日の就寝前の布団会議では『頻繁におもちゃ屋さんに連れて行ってもらうにはどうしたらいいか』ということが一番の悩みと申しておりました。
これらの様々な出来事も息子と出会っていなければ、全部無かったことになるのかと思うと、里親やってよかったと思います。施設でのお別れの時、「A君は諸事情あって、施設でのお別れが2度目です。さみしい経験を乗り越えてきたのも、里親さんと出会うための運命やったんかなあと思います。」とおっしゃっていただきました。ちょうど養育を開始した時期に、地球人口が70億人を突破したと新聞記事になっていました。息子とは血は繋がっていませんが70億分の1の出会いです。奇跡と運命で繋がっている私達は家族です。
もし里親どうしようと迷っている方がいらしゃるなら、やってみた方がいいと思います。不真面目な私でもなんとかなってます。里親支援機関や子ども相談所の皆さん、そして堺市里親つながり会の仲間達のバックアップもありますし、やらないで悩む時は一人ですが、やってみて悩む時は家族が増えていますし、仲間も増えています。
子ども嫌いの私が言うのも変ですけど、子どもの居る生活って毎日が楽しいですよ。

もっか息子と弟や妹が欲しいよね。と共同戦略を計画し主人と交渉中です。泣き落としや猫なで声が通じなければ、最終的には兵糧攻めも画策して家族増加計画進行中です。

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